タイトル 「学歴エリート」は暴走する 「東大話法」が蝕む日本人の魂
著者 安冨歩
発行 講談社
参考完読時間 205ページ/200分
1963年、大阪府生まれ。京都大学を卒業後、大手銀行に勤める。
退職後は京大や東大で研究員や助教授を歴任し、学術研究の世界に入る。
現在は東大の教授。
2019年の参院選でれいわ新撰組から出馬する。
この著者の文章や構成が好きな事と
著者が主張する「東大話法」について知りたいと思い、読んでみました。
結論から言うと、「東大話法」についての詳述は別の著書でされているようです。
※東大話法はとても興味深いので後日、その著作も紹介すると思います。
本書は学歴エリートと称される、日本社会の中枢を牛耳っている人々のルーツと
現代日本社会の問題を繋ぐ一冊です。
予想していた内容とは異なりましたが、とても面白かったです。
理解不能な政治家の発言や対応、意味不明な社会制度、スキームがまかり通る謎の一端が解明されます。
【体裁を変えて現代まで残る戦時中の社会運営スキーム】
著者の研究によると、
戦時中、国家の中枢にいて社会運営を担っていた学歴エリートの中で、
戦犯として責任を問われなかった人々(陸軍、海軍が崩壊したので主に東大法学部)が
戦後、政治家や官僚、金融、商社、基幹産業のトップとして復権していったそうです。
そんな彼らが日本の主導権を握り、社会構造を再構築していきました。
”軍国主義”から”民主主義”に体裁は変わったが、
戦前、戦時中に培われた彼らの根底にある価値観や組織づくり、
社会運営の基本的なスキームは根強く残ったと言います。
著者の挙げる例では、
富国強兵 → 所得倍増計画
国家戦争 → 受験戦争、経済戦争、企業戦士
勲章制度 → 資格ブーム、スペック競争
欲しがりません勝つまでは → デフレ下における緊縮財政
靖国の母 → 教育ママ、専業主婦
という具合に。
これだけでも恐ろしいツケが後世に残っているな、という感じです。
国債の発行額だけを”将来の世代へのツケ”と呼ぶ人をよくテレビで見かけますが、
このエリート達が構築した社会構造の歪みは、
(世界に類を見ない少子高齢化、世界に類を見ないデフレの長期化、賃金の低下、逆進性の税制、
社会保障の個人負担の増加、住民サービスの低下、インフラの老朽化、崩壊、政治家達の無責任、隠蔽・・・)
既に現代を生きる人々にツケとして負わされており、
このダメージが次の世代に残る事は(奇跡が起こらない限り)確定的です。
このように考えると、どのような論で国債の発行額だけを”将来へのツケ”だとしているのか気になる所です。
【”高度経済成長期=いい時代”は事実誤認?】
高度経済成長期(1954~1973年)は”夢や希望があふれるいい時代”として
ノスタルジックに描かれる事の多い時代です。
「あの頃は良かった・・・」と振り返る事をよく聞くし、
政治家の演説でも「高度経済成長期をもう一度!」みたいな事を聞いたことがあります。
その時代を経験していない私には、
その時代の再来を目指す事が良いことなのか全くわかりませんでした。
著者曰く、国家が壊滅するほどのダメージがあった戦争から
たった10年で”戦後”が終わり、いい時代になるはずが無い、という事です。
著者が挙げる、この時代に起きた事や世相を
(米ソ冷戦、水俣病等公害、環境汚染、森永ヒ素ミルク事件、食品汚染、
太陽族、学生運動、少年犯罪の急増、安保騒動etc)
見てみると、とても夢や希望があふれる時代とは言えなそうです。
問題のある実態を隠して、都合の良い部分だけを誇大広告するのは
現代と全く変わらないようです。
そして、この時代に生きた人々はこのプロパガンダを受け入れて、
後世では”夢や希望があふれるいい時代”として懐古しています。
これは、欺瞞もしくは現実逃避の上に、
戦後の日本社会は形成されてきたという見方もできるという事です。
戦後の国家再生の根底にある意図が、
そもそも幸せに向かうものでもなければ、民主主義でもなかったと言えます。
しかし、建前は民主主義であり、国民の幸福を追求しているフリをしています。
この乖離が現在の様々な社会問題とシステムの崩壊を引き起こしているのかもしれません。
これは既に手遅れで、順応するしかない事だと思います。
人口減少、少子高齢化、生産力の低下をとってみても、
例え今から政府が有効的な対策を講じたとしても、
成果が出るのはずっと先です。
子どもはすぐには大きくならないのですから。
1億2000万人が9000万人になった時、
今の社会システムで運用できるはずがありません。
つまり、システムのスクラップ&ビルドは必然的でしょう。
混乱やハレーションも起こりそうです。
【立場>私という主体】
著者の主張に「日本は立場主義社会である」というものがあります。
この考えは、私が個人的に経験してきた社会生活での息苦しさの謎に
一つの解答を示してくれました。
日本人の多くは、”私”という主体で生きるよりも、
手に入れた立場を守る事に固執して生きている、というのです。
私は中学生の時にいじめを経験しましたが、
この立場主義は、大人の一般社会だけでなく中学生の間にも見られました。
クラス、部活、友人間の立場を保持するために、高いスペックを得ようしたり、
仲良くする相手を意図的に選んだり、高いスペックを持たない学生を見下している連中が少なからずいました。
そして、立場を守れなかった学生は仲間外れになり、
立場社会からドロップアウトして、いじめの対象リストに入ってしまいます。
学校でのいじめというのは、
傍観する大人達と隠れて嫌がらせをする子ども達により成立し、
今、思い返してみてもおぞましい光景ですが、
ネットやスマホを使いこなす子どもが増えた現在では、
より陰湿かつ巧妙になり、残酷に変化しているようです。
一方で、大人の社会でも傍観と隠れた嫌がらせはよく見聞きする光景です。
子どもがいない場合、学校のいじめと自分は無関係だと思ってしまいがちですが、
どこまでいっても社会と自分は切り離せない事をしっかり認識しなければいけません。
少し脱線しましたが、
この立場主義という視点はとても面白いので、ぜひ読んでみて下さい。